2009年のあなた
ここ数年あなたは、一日一日の重さをかみしめていることと思います。長期的な目標を持つと同時に、日常生活の中で、小さな幸せをたくさん見つけることで、人生を充実したものにしていきましょう。
2009 年をひと言で表すとしたら「心の平穏」がぴったりです。ここ数年のあなたは、とてつもなく大きな何かにほんろうされたものの、そこからしっかり立ち直って、力強く生きてきたのではないでしょうか。そんなあなたが、心の底では安らぎを求めていたことを、だれが知っているでしょう? たったひとりであっても、あなたの真の願いをわかってくれる人がいるのであれば、あなたはその人との間に、英語で言う“ホーム(home)”を感じているはずです。
相手が目の前にいてもいなくても、心の底でつながっていることを感じられれば、たとえ雑踏の中にいても、あなたは不思議な安らぎを覚えて、歩き続けることができるでしょう。また、実際に引越しをしたりすることも可能な年ですから、より自分の心が穏やかになれる環境を選びとっていきましょう。
秋が近づくと、身の振り方を考える機会が多くなると思います。
ここ数年あなたは、一日一日の重さをかみしめていることと思います。長期的な目標を持つと同時に、日常生活の中で、小さな幸せをたくさん見つけることで、人生を充実したものにしていきましょう。
2009 年をひと言で表すとしたら「心の平穏」がぴったりです。ここ数年のあなたは、とてつもなく大きな何かにほんろうされたものの、そこからしっかり立ち直って、力強く生きてきたのではないでしょうか。そんなあなたが、心の底では安らぎを求めていたことを、だれが知っているでしょう? たったひとりであっても、あなたの真の願いをわかってくれる人がいるのであれば、あなたはその人との間に、英語で言う“ホーム(home)”を感じているはずです。
相手が目の前にいてもいなくても、心の底でつながっていることを感じられれば、たとえ雑踏の中にいても、あなたは不思議な安らぎを覚えて、歩き続けることができるでしょう。また、実際に引越しをしたりすることも可能な年ですから、より自分の心が穏やかになれる環境を選びとっていきましょう。
秋が近づくと、身の振り方を考える機会が多くなると思います。
なんかしんどいなぁ・・
2008年12月8日 日常行かなくてもいい ということが体は正直に分かっている。
この1年必死で走って来た。
体も心も。
先先と読むことを要求され(誰が??)
世間体と見栄とそして思いやりと
一挙に無くしてしまったもの 気力かな・・。
この1年必死で走って来た。
体も心も。
先先と読むことを要求され(誰が??)
世間体と見栄とそして思いやりと
一挙に無くしてしまったもの 気力かな・・。
病院にお礼に行ってきた。
2008年12月1日 日常自分教の教祖さま・・
教祖になったら人の言葉が聞こえないそうだ・・。
『気持ちが変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる』
高橋 佳奈ちゃまよりの言葉
教祖になったら人の言葉が聞こえないそうだ・・。
『気持ちが変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる』
高橋 佳奈ちゃまよりの言葉
Bob先生の言葉から
2008年10月20日 日常
褒めたり共感したり勇気づけたりして、
自己愛を満たしてあげよう。
他人にだけでなく自分自身にもそうして上げよう
なんていい言葉でしょうか?
私を褒めるなんて・・。
けなされ認められなかったあの頃
傷は随分深く 癒されるのには随分時間が掛かります。
自己愛を満たしてあげよう。
他人にだけでなく自分自身にもそうして上げよう
なんていい言葉でしょうか?
私を褒めるなんて・・。
けなされ認められなかったあの頃
傷は随分深く 癒されるのには随分時間が掛かります。
回避性人格障害Bob先生より
2008年10月9日 日常回避とは、依存との対義語として使われます。
回避性人格障害とは、自信のなさや無力感から、
対人関係を回避する人格障害です。
幼児期の万能感からいつまでも抜け出せず、
自分が傷つくことに必要以上に回避的になります。
社会的な制止、不適切感、否定的な過敏反応は、
以下のうち、四つ以上で示されます。
1)批判、否認、拒絶、恐怖のために重要な出会いを避けたり、
仕事をしようとしない。
2)好かれていると自信がなければ人と出会えない
3)恥、またバカにされることを恐れ、親しい仲でも遠慮する
4)批判、拒絶に心がとらわれている
5)不適切感のために新しい人間関係ができない
6)自分は社会的に不適切である、長所がなく人より劣っている
7)恥ずかしさのため、危険をおかしたり、
新しい活動にかかわることが異常なほど引っ込み思案である
批判への過剰な反応として一例をあげましょう。
☆ある男性が、修士院生二年目になったころ、
研究室に出てこなくなったため、本人のカウンセリングが始まる。
事情を聴くと他人が優秀にみえ、学部時代より自信を失い、
馬鹿にされないかとビクビクするようになってきた。
視線恐怖、赤面恐怖も始まり、
怖いと言う理由で授業を回避する。
指導教師によれば、本人の成績は優秀で、
何故そんなに自信がなくて、
弱気なのか理解に苦しむということでした。
分かってきたことは、
小さいころから秀才で褒められることになれきっていた。
挫折や失敗を知らず、
本当の自分を知られることの敗北感、恐怖があった。
この過剰な期待と完全欲求の束縛からの解放が、
治療の目標となりました。
集団精神療法で、このような悩みは自分だけではないことを、
理解して孤立感から脱却できたことが、
重要な転機となり、現在は民間会社で活躍中です。
どうでしょう? 私にも当てはまる・・
そう感じた方もおられるのではないでしょうか?
結局、人間は完全な存在ではない、
子供のころのような、万能感(何でも出来る)を、
現実にはもっては生きれないのです。
そのことに気づくことが回復の一歩でした。
失敗や挫折は、成功するには必要不可欠な過程といえます。
しかし、現在の若者は幼少期からの不満挫折を知らず、
母子一体の環境で育つことが多かったようです。。
依存、または回避的傾向が多くなって人格障害となってしまう、
また、人生の価値が曖昧でカルトの誘惑や、
自分を飾ることのみに奔走していきます。
回避性人格障害とは、自信のなさや無力感から、
対人関係を回避する人格障害です。
幼児期の万能感からいつまでも抜け出せず、
自分が傷つくことに必要以上に回避的になります。
社会的な制止、不適切感、否定的な過敏反応は、
以下のうち、四つ以上で示されます。
1)批判、否認、拒絶、恐怖のために重要な出会いを避けたり、
仕事をしようとしない。
2)好かれていると自信がなければ人と出会えない
3)恥、またバカにされることを恐れ、親しい仲でも遠慮する
4)批判、拒絶に心がとらわれている
5)不適切感のために新しい人間関係ができない
6)自分は社会的に不適切である、長所がなく人より劣っている
7)恥ずかしさのため、危険をおかしたり、
新しい活動にかかわることが異常なほど引っ込み思案である
批判への過剰な反応として一例をあげましょう。
☆ある男性が、修士院生二年目になったころ、
研究室に出てこなくなったため、本人のカウンセリングが始まる。
事情を聴くと他人が優秀にみえ、学部時代より自信を失い、
馬鹿にされないかとビクビクするようになってきた。
視線恐怖、赤面恐怖も始まり、
怖いと言う理由で授業を回避する。
指導教師によれば、本人の成績は優秀で、
何故そんなに自信がなくて、
弱気なのか理解に苦しむということでした。
分かってきたことは、
小さいころから秀才で褒められることになれきっていた。
挫折や失敗を知らず、
本当の自分を知られることの敗北感、恐怖があった。
この過剰な期待と完全欲求の束縛からの解放が、
治療の目標となりました。
集団精神療法で、このような悩みは自分だけではないことを、
理解して孤立感から脱却できたことが、
重要な転機となり、現在は民間会社で活躍中です。
どうでしょう? 私にも当てはまる・・
そう感じた方もおられるのではないでしょうか?
結局、人間は完全な存在ではない、
子供のころのような、万能感(何でも出来る)を、
現実にはもっては生きれないのです。
そのことに気づくことが回復の一歩でした。
失敗や挫折は、成功するには必要不可欠な過程といえます。
しかし、現在の若者は幼少期からの不満挫折を知らず、
母子一体の環境で育つことが多かったようです。。
依存、または回避的傾向が多くなって人格障害となってしまう、
また、人生の価値が曖昧でカルトの誘惑や、
自分を飾ることのみに奔走していきます。
読めない単語の調べ方
2008年10月9日 日常【ITエクスプレス】読めない単語の調べ方
2008.10.6 08:24
パソコンで扱う文書やデータの中にはさまざまな漢字が使われている。表音文字のかなとは違って意味も表すため、漢字でつづられた単語は趣があっていいものだ。ただ、難しくて読めないこともけっこう多い。
たとえば、薊(あざみ)、万年青(おもと)、酸漿(ほおずき)、蝸牛(かたつむり)、好々爺(こうこうや)、無花果(いちじく)、公孫樹(いちょう)、鯊(はぜ)などは、字面はとてもすてきだけれど、ある程度の漢字力を身につけた人でないと読めないだろう。
辞書を引くにも、読みがわからなければどうしようもない。でもパソコンならこんな方法がある。
読みがわからない単語をコピーして、「メモ帳」や「ワード」などに張り付ける。次に、張り付けた単語を領域指定して変換可能な状態にする。あとは、そのまま変換キーを押してみよう。すると、単語の読み方とともに、同じ読みの単語のリストが表示される。
すべての単語の読みを調べられるわけではないが、使いこなせば実に便利な機能なので、ぜひ試してみてほしい。
なお、日本語入力システムにATOKを使っている場合は、変換キーをシフトキーと一緒に押さなくてはいけない場合もある。(伊藤壽一郎)
2008.10.6 08:24
パソコンで扱う文書やデータの中にはさまざまな漢字が使われている。表音文字のかなとは違って意味も表すため、漢字でつづられた単語は趣があっていいものだ。ただ、難しくて読めないこともけっこう多い。
たとえば、薊(あざみ)、万年青(おもと)、酸漿(ほおずき)、蝸牛(かたつむり)、好々爺(こうこうや)、無花果(いちじく)、公孫樹(いちょう)、鯊(はぜ)などは、字面はとてもすてきだけれど、ある程度の漢字力を身につけた人でないと読めないだろう。
辞書を引くにも、読みがわからなければどうしようもない。でもパソコンならこんな方法がある。
読みがわからない単語をコピーして、「メモ帳」や「ワード」などに張り付ける。次に、張り付けた単語を領域指定して変換可能な状態にする。あとは、そのまま変換キーを押してみよう。すると、単語の読み方とともに、同じ読みの単語のリストが表示される。
すべての単語の読みを調べられるわけではないが、使いこなせば実に便利な機能なので、ぜひ試してみてほしい。
なお、日本語入力システムにATOKを使っている場合は、変換キーをシフトキーと一緒に押さなくてはいけない場合もある。(伊藤壽一郎)
勉強は自分のためです・・
2008年6月26日今日は家族会
家族の中に同じ病気を持つもの同士が集まり専門の先生のお話や家族の体験談を聞く集まりがありました。
今日の先生は相手のいいところを7つ探しなさいと以前宿題をもらいました。
私もやっと相手のいいところを見つけることが出来てきて
また自分のいいところも探しています。
私は何でもかんでもしてあげたい
先さきを読んでしなければいけないと言う共依存の体質です。
これを相互依存に持って行く努力をしています。
面倒見が良いというといいんですが しなくていいことを先さきすると相手はそれこそなにもせずに飲み続ける生活に嵌ってしまうと言う悪循環を長い間していました。
酒のコントロール障害の病気だと知ったいま 正しい知識を持ち アルコール依存症は仲間の中で回復していく病気だと
認識しています。
ただ世間でアルコール依存は偏見があり 私もそうでしたから・・ そこを認めない限り1歩を踏み出すことは難しいですね。
たま吉 - 2008/06/23(Mon)
相手のいいところを見る。
これはとても大切ですね。
欠点を見るよりいいところを見ていたほうが、
相手も自分も幸せです。
日本人はとかく伴侶のことをあえてよくないように云ったりしますが、
よいところは声に出して云ってもよいのではないかと思います。
アルコール依存症はいままでのイメージがあって
それを払拭するにはメディアもまだまだですが、
家族会で手を取り合ってそこから脱出しようとしているひともいるのですよね。
私は偏見の目はもってないですよ。
応援してます!
たまちゃん、病院で、老婦人がご主人のお見舞いに来られ布団の具合を直したり話しかけたりされています。
夕食の時間 そのご主人は食べられなくて点滴です。
腰も曲がっているのに婦人はわざわざその時間に食べれないご主人が辛い思いをしないようにと毎日来られます。
そして「童謡」を歌われるんです。
私 思わず一緒に父に食事を上げながら歌っていました。
色んな方がいらっしゃるでしょうがご夫婦が良い関係だったんだと感じさせていただき、母のことを重ねてしまいます。
家族会に8年通ってやっと人間らしく成ってきました。
熟成するには時間がまだまだありそうなので 今は今のことをさせてもらっています。
主人の回復振りはDr,たちも皆さん驚くほどです。
私たち家族が1番驚いていますが こんな人生もあるんだなぁとしみじみ感じさせてもらう毎日です。
今日は例会なんです。
止め続けている姿を見てもらうことが否認や偏見を見つめなおすことにつながる様に歩いています。
病気を忘れないように・・今の生活に感謝です。
家族の中に同じ病気を持つもの同士が集まり専門の先生のお話や家族の体験談を聞く集まりがありました。
今日の先生は相手のいいところを7つ探しなさいと以前宿題をもらいました。
私もやっと相手のいいところを見つけることが出来てきて
また自分のいいところも探しています。
私は何でもかんでもしてあげたい
先さきを読んでしなければいけないと言う共依存の体質です。
これを相互依存に持って行く努力をしています。
面倒見が良いというといいんですが しなくていいことを先さきすると相手はそれこそなにもせずに飲み続ける生活に嵌ってしまうと言う悪循環を長い間していました。
酒のコントロール障害の病気だと知ったいま 正しい知識を持ち アルコール依存症は仲間の中で回復していく病気だと
認識しています。
ただ世間でアルコール依存は偏見があり 私もそうでしたから・・ そこを認めない限り1歩を踏み出すことは難しいですね。
たま吉 - 2008/06/23(Mon)
相手のいいところを見る。
これはとても大切ですね。
欠点を見るよりいいところを見ていたほうが、
相手も自分も幸せです。
日本人はとかく伴侶のことをあえてよくないように云ったりしますが、
よいところは声に出して云ってもよいのではないかと思います。
アルコール依存症はいままでのイメージがあって
それを払拭するにはメディアもまだまだですが、
家族会で手を取り合ってそこから脱出しようとしているひともいるのですよね。
私は偏見の目はもってないですよ。
応援してます!
たまちゃん、病院で、老婦人がご主人のお見舞いに来られ布団の具合を直したり話しかけたりされています。
夕食の時間 そのご主人は食べられなくて点滴です。
腰も曲がっているのに婦人はわざわざその時間に食べれないご主人が辛い思いをしないようにと毎日来られます。
そして「童謡」を歌われるんです。
私 思わず一緒に父に食事を上げながら歌っていました。
色んな方がいらっしゃるでしょうがご夫婦が良い関係だったんだと感じさせていただき、母のことを重ねてしまいます。
家族会に8年通ってやっと人間らしく成ってきました。
熟成するには時間がまだまだありそうなので 今は今のことをさせてもらっています。
主人の回復振りはDr,たちも皆さん驚くほどです。
私たち家族が1番驚いていますが こんな人生もあるんだなぁとしみじみ感じさせてもらう毎日です。
今日は例会なんです。
止め続けている姿を見てもらうことが否認や偏見を見つめなおすことにつながる様に歩いています。
病気を忘れないように・・今の生活に感謝です。
歪んだ認知チェックリスト Bob先生より
2008年6月19日歪んだ認知のチェックリスト2008年 06月 13日
1、白黒思考
白か黒か両極端な考えや二分法で物事を見る
2、一般化のしすぎ
否定的な出来事を、いつまでも続くように捉えてしまう
3、心のフィルター
マイナスばかりを思い悩み、プラス面を無視する
4、マイナス化思考
自分の達成した出来事やプラス面を、
大したことがないと頑なに主張する
5、結論への飛躍
?心の読みすぎ:証拠もないのに誰もがあたたを
批判してると思い込む。
?先読みの誤り:物事を悪い方に向かうと考える
6、拡大解釈と過小評価
悪いことは大きく、良いことは小さく考えてしまう
7、感情的決め付け
自分の感じ方で結論を導き出す。
「私はダメだと感じるからダメな人間だ」
「私はやりたくない、だから先延ばしにしよう」
8、すべき思考
「すべき」「すべきでない」で自分や他人を批判する。
「しなければならない」も同じ
9、レッテル貼り
自分の間違いを自分そのものと思い込む
私は間違ったの代わりに「私は落伍者だ」
10、個人化と責任の押しつけ
責任がないのに自分を責めたり、
自分の態度や行動が原因であることを見落として、
他人を責める
1、白黒思考
白か黒か両極端な考えや二分法で物事を見る
2、一般化のしすぎ
否定的な出来事を、いつまでも続くように捉えてしまう
3、心のフィルター
マイナスばかりを思い悩み、プラス面を無視する
4、マイナス化思考
自分の達成した出来事やプラス面を、
大したことがないと頑なに主張する
5、結論への飛躍
?心の読みすぎ:証拠もないのに誰もがあたたを
批判してると思い込む。
?先読みの誤り:物事を悪い方に向かうと考える
6、拡大解釈と過小評価
悪いことは大きく、良いことは小さく考えてしまう
7、感情的決め付け
自分の感じ方で結論を導き出す。
「私はダメだと感じるからダメな人間だ」
「私はやりたくない、だから先延ばしにしよう」
8、すべき思考
「すべき」「すべきでない」で自分や他人を批判する。
「しなければならない」も同じ
9、レッテル貼り
自分の間違いを自分そのものと思い込む
私は間違ったの代わりに「私は落伍者だ」
10、個人化と責任の押しつけ
責任がないのに自分を責めたり、
自分の態度や行動が原因であることを見落として、
他人を責める
偲んで・・
2008年4月28日寒い冬を 乗り越えて
やっと 桜を見送り
庭の花も 一斉に咲き出した 春
花たちが咲き出したとたん
まるで花たちに 見送られるように
ひっそりと 旅立っていった あなた
苦しむことなく 花に囲まれた
嬉しそうな 顔が 見えます
合掌 真千子
母
2008年4月27日母が亡くなった
2008・4・22日火曜日 午前3時ころ 平成二十年
ひとり布団の中で眠るように亡くなっていた。
毎日 1時ごろ実家によって母を見て おしゃべりしておかずを渡して・・
そう3月28日に父が協和会大黒先生から紹介状をもらって吹田済生会に行った日 母も清滝先生を受診
そのまま入院となった父
母はしんどくてしんどくて車椅子で移動
昨年の10月 「もう出来ない」とお手上げした母
それから毎日両親におかずを持って行く毎日だった
自分が動けなくなったことを受け容れず しんどい日々があったと思う。
人のことをとやかく言っていたのに自分がなって初めて挫折を味わうが 受け容れられない。
でも出来ないのは事実だったので 私の手助けを受け容れるようになってきた。
私は断酒会で心の回復をほんの少しさせてもらえているので
主人と二人が協力して 実家の両親の心の支えになってきていた。
ありがたいことだと思う。
私たち夫婦夫婦が辛い時 両親が元気で生活してくれたこと
はとてもありがたかった
母は東京の弟たちともお別れをしていたので 予感はあったんだと思う。
22日亡くなったわけだが 19日土曜に体中がワサワサして 死ぬかと思った と電話で言っていた。
父が入院しているので 死んだらいけない そう思って頑張った そう言っていた。
月曜日 硬直のあった手は動くようになったといってニギニギしてみせた。
検死の先生は完全にしびれて感覚のない状態だといった
虚血性心疾患 82歳 釈智真
2008・4・22日火曜日 午前3時ころ 平成二十年
ひとり布団の中で眠るように亡くなっていた。
毎日 1時ごろ実家によって母を見て おしゃべりしておかずを渡して・・
そう3月28日に父が協和会大黒先生から紹介状をもらって吹田済生会に行った日 母も清滝先生を受診
そのまま入院となった父
母はしんどくてしんどくて車椅子で移動
昨年の10月 「もう出来ない」とお手上げした母
それから毎日両親におかずを持って行く毎日だった
自分が動けなくなったことを受け容れず しんどい日々があったと思う。
人のことをとやかく言っていたのに自分がなって初めて挫折を味わうが 受け容れられない。
でも出来ないのは事実だったので 私の手助けを受け容れるようになってきた。
私は断酒会で心の回復をほんの少しさせてもらえているので
主人と二人が協力して 実家の両親の心の支えになってきていた。
ありがたいことだと思う。
私たち夫婦夫婦が辛い時 両親が元気で生活してくれたこと
はとてもありがたかった
母は東京の弟たちともお別れをしていたので 予感はあったんだと思う。
22日亡くなったわけだが 19日土曜に体中がワサワサして 死ぬかと思った と電話で言っていた。
父が入院しているので 死んだらいけない そう思って頑張った そう言っていた。
月曜日 硬直のあった手は動くようになったといってニギニギしてみせた。
検死の先生は完全にしびれて感覚のない状態だといった
虚血性心疾患 82歳 釈智真
Bobの部屋から
2008年4月12日迷いと悟り私が何故、
神経症の話しを、いつまでもしているのか?
それは、神経症に苦しむ多くの人がいることを、
知っているからです。
禅宗(曹洞宗)の偉大なる僧であった、
故澤木興道和尚は、
坐禅とは「打ち方や止め」の号令であると言いました。
森田療法も同じことです。
心に浮かぶ想念はどうしようもない、、
ただその思いに、
価値判断することをしないのです。
心をあるがままにして置きます。
そして生きる欲望と死ぬ恐怖は、
二つの違う価値ではなく、
表裏一体、二つで一つのものです。
生きることに暇なら、死ぬことに忙しくなります。
だったら生きることに忙しくしたら、
死ぬ恐怖は消えていきます。
それが分かれば、
大急ぎで、今の生活に手を出してください、
それに尽きるのです。
そうすれば治すと言う手間を省き、
いまから、治っていることに気づくはずです。
(第180話
神経症の話しを、いつまでもしているのか?
それは、神経症に苦しむ多くの人がいることを、
知っているからです。
禅宗(曹洞宗)の偉大なる僧であった、
故澤木興道和尚は、
坐禅とは「打ち方や止め」の号令であると言いました。
森田療法も同じことです。
心に浮かぶ想念はどうしようもない、、
ただその思いに、
価値判断することをしないのです。
心をあるがままにして置きます。
そして生きる欲望と死ぬ恐怖は、
二つの違う価値ではなく、
表裏一体、二つで一つのものです。
生きることに暇なら、死ぬことに忙しくなります。
だったら生きることに忙しくしたら、
死ぬ恐怖は消えていきます。
それが分かれば、
大急ぎで、今の生活に手を出してください、
それに尽きるのです。
そうすれば治すと言う手間を省き、
いまから、治っていることに気づくはずです。
(第180話
Bobの診察室より
2008年3月31日もう少し、あるがままについて
2008年 03月 30日
あるがまま
1)あるがままとは、そのままを認めることです。
どんな感情も受け入れます。
不安・不快をもちながら「〜したい」という欲望を
行動していきます。
2)つらい感情はないほうが良い、あってはならないと、
思ったり、消してしまおうとしたりします。
それは強迫観念を作り出すだけでなく、
自然に感じる習慣をなくします。
3)苦痛はそのまま苦痛であるし、悩みはそのまま悩みです。
4)不安定な気持ち、スッキリしない気持ちを持ったままで、
その状況になりきる、流れに乗ることが「あるがまま」です。
純な心
1)自由に湧き上がる感情を評価し、
「こんなことではいけない」と思うと、
葛藤はどんどん大きくなります。
2)喜び、怒り、嫉妬や不安はすべて自然な感情であって、
責めることも恥じることもありません。
感情は事実として「ある」だけですから、
どんな感情を抱いても構わないのです。
3)「純な心」とは、美しい・きれいな感情ではなくて、
理屈や判断が入り込まない、そのままの感情です。
この自然な感情を否定したり、ごまかしたりしないように。
4)考えや論理ではなく、瞬間的なひらめきによって、
行動してみることも大切です。
(第176話)
2008年 03月 30日
あるがまま
1)あるがままとは、そのままを認めることです。
どんな感情も受け入れます。
不安・不快をもちながら「〜したい」という欲望を
行動していきます。
2)つらい感情はないほうが良い、あってはならないと、
思ったり、消してしまおうとしたりします。
それは強迫観念を作り出すだけでなく、
自然に感じる習慣をなくします。
3)苦痛はそのまま苦痛であるし、悩みはそのまま悩みです。
4)不安定な気持ち、スッキリしない気持ちを持ったままで、
その状況になりきる、流れに乗ることが「あるがまま」です。
純な心
1)自由に湧き上がる感情を評価し、
「こんなことではいけない」と思うと、
葛藤はどんどん大きくなります。
2)喜び、怒り、嫉妬や不安はすべて自然な感情であって、
責めることも恥じることもありません。
感情は事実として「ある」だけですから、
どんな感情を抱いても構わないのです。
3)「純な心」とは、美しい・きれいな感情ではなくて、
理屈や判断が入り込まない、そのままの感情です。
この自然な感情を否定したり、ごまかしたりしないように。
4)考えや論理ではなく、瞬間的なひらめきによって、
行動してみることも大切です。
(第176話)
傾聴
2008年2月6日ここではロジャースの聴く態度としての、
三つの条件を紹介します。
1)自己一致
自分の心に嘘がないこと、
ありのまま、構えのない態度でいられることです。
あなたが、あなたでいられるためには、
私が私である必要があると、私は解釈しています。
2)無条件の肯定的態度
こちらの欲求を満たすことを、
クライエントに望む前提がないこと。
ただ相手を尊重し、ありのままを
受け入れる姿勢をもつこと、
これって、とても大切です。
3)共感的理解
クライエントが感じたこと、考えたことを、
理解するように勤める態度です。
相手の言ったことに、こだわるのではなく、
相手が何を言いたかったかを、理解しようとする気持ちです。
三つの条件を紹介します。
1)自己一致
自分の心に嘘がないこと、
ありのまま、構えのない態度でいられることです。
あなたが、あなたでいられるためには、
私が私である必要があると、私は解釈しています。
2)無条件の肯定的態度
こちらの欲求を満たすことを、
クライエントに望む前提がないこと。
ただ相手を尊重し、ありのままを
受け入れる姿勢をもつこと、
これって、とても大切です。
3)共感的理解
クライエントが感じたこと、考えたことを、
理解するように勤める態度です。
相手の言ったことに、こだわるのではなく、
相手が何を言いたかったかを、理解しようとする気持ちです。
ピュアカウンセリング
2008年2月6日カウンセラーに必要な態度条件
? 自己一致(純粋性)
? 無条件の受容(積極的関心)
? 共感的理解
この三つの行動ができたら、
あなたの人間関係に、劇的な効果をもたらすでしょう。
? 自己一致(純粋性)
? 無条件の受容(積極的関心)
? 共感的理解
この三つの行動ができたら、
あなたの人間関係に、劇的な効果をもたらすでしょう。
曽野 綾子
2008年1月26日曽野綾子さん「戒老録」より
●何才から、あるいはどのような人が老人なのか?
年金を受ける年から、定年退職の年から、というような分け方は当てにならない。
人間の老化の程度はじつに人によってさまざまだからである。(中略)
比較的誰にも当てはまり、かつ、主観と客観の一致する方法として、
「もらう」ことを要求するようになった人を、何才からでも老人と思うことにしている。
人間は子どもの時には、まずもらうことから始まる。
おっぱいを飲ませてもらい、オンブをしてもらい、やがて学校へ行くようになるとランドセルを買ってもらい、おべんとうを作ってもらう。これが十五年から時とすると二十年以上も続く。
しかしその子はやがて独立し「与える」側に廻る。
妻子を養い、子どもを教育し、年老いた親を庇う。
そして何十年か経つと、彼は老い、再び自然に子や孫や社会から、手助けしてもらい、与えられる立場に廻る。
しかし彼が本当に一人前の人間であった期間には、彼は何才であろうと、誰かに何かを与えていたのである。
それゆえ、真の成年というものは、肉体的年令が何才であろうと、与えている人であり、もらうことばかり要求している人は、どんなに若くとも老人である、という考え方である。
この徴候は自他ともに明確にわかるから単純でいいのではないかと思う。
●他人が、何かを「くれる」こと、「してくれること」 を期待してはいけない。
そのような受身の姿勢は、若い時には幼児性、年とってからは老年性と密接な関係を持つものだからである。
わずかな金銭、品物から、手助けに至るまで年寄りはもらうことに信じられないほど敏感である。
この心理状態があらゆる場面に強く感じられるようになったら、それは老化がかなり進行している証拠と見ていい。
昔から、人間のもっとも基本的な(原始的なと言うべきかもしれない)生活態度は自ら自分に必要なものを獲ってくることであり、次に弱いものに与えることであった。
幼児に食物を与えることは、種族保存のために必要な行為であり、一人前の成熟した人間は、自分のためには自分で働き、同時に弱い者にはさまざまなものを与えたのである。
『くれる』ことを期待する精神状態は、一人前の人間であることを自ら放棄した証拠である。
放棄するのは自由だが、一人前でなくなった人間は、精神的に社会に参加する資格を失い、ただ、労ってもらうという、一人前の人間にとっては耐えられぬ一種の「屈辱」にさらされねばならぬもの、と自覚するべきであろう。
●してもらうのは当然、と思わぬこと。
年寄りだからといって、してもらう権利があると思うのは、錯覚。
「行政上の老人」としては、してもらう権利があるであろう。
しかし精神を持った人間としてはそうではない。
今は若い人まで、社会や国家に何かを要求し、してもらうのが当然と思う時代である。
しかし根本は、けっしてそうではない。
老人であろうと、若者であろうと、原則はあくまで自立することである。
自分の才覚で生きることである。
社会にしてもらってもいいが、そのほかの部分では、自分が自らすることの範囲をできるだけ広く残しておかなければ、欲求はますます増え、そのために不満も比例して大きくなるのである。
●自分の生き方を持ち、他人の生き方を、いいとか悪い とか決めずに認めること。
五十才になって私が感じたことは、もうこの年になれば人はそれぞれの長い歴史を持っている、ということだった。それを改変させようとすることは思い上がりである。
五十才になれば、残りの時間は、もしかすると短いのだから、その人の生きたいように生きることを承認したい、ということだった。
●定年を一くぎりとして、その後は新たなスタートと思 うこと。
一年生、新人になるのだから、人から教えら れるのも当然。
●明るくすること。心の中はそうでなくても、外見だけ でも明るくすること。
壮年時代に、人間はどれだけ耐えてきたことか。
しかし、年をとると、この耐えるということに対する根本的な力がしだいに薄れてくるものとみえる。
体が悪くなり、能力がおとろえ、親友が死んだら、暗く、悲しい思いになるのも当然である。
当然だから、そのままそのような顔をしていていいということは、この世にはないのである。
●生活の淋しさは、誰にも救えない。
自分で解決しょうとする時に、手助けをしてくれる人はあるだろうが、 根本は、あくまで自分で自分を救済するほかはない。
淋しさは、老人にとって共通の運命であり、最大の苦痛であろう。
皮肉なことに、老いてなお、子どもが独立していなかったり、金銭の苦労があったりする人は、この淋しさという苦しみを免除されている。
淋しさは一応、恵まれた老人に課された、独特の税金だと言ってもいいかもしれない。
他人に話相手をしてもらい、どこかへ連れて行ってもらうことによって、それを解決しようとする老人がいる。しかしそれは、根本的には何ら解決にならない。
どんな老人でも、目標を決めねばならない。
生きる楽しみは、自分が発見するほかはない。
▼年寄りの自分に対する態度が悪いといって、相手を非 難するのは無意味である。
バカにされたといって嘆くほど、つまらないことはないような気がする。
本当に老齢のために頭がバカになっているなら、バカにされる理由はあるのだし、バカでもないのにバカにされたのなら、自分はそうでないのだからほっておけばいいだけである。
バカにされた、と言って怒ったり、相手に文句を言ったりするのは、もしかしたら、逆に老化が来たというはっきりした証拠になっているのかもしれない。
▼楽しみを得たいと思ったら、金を使うことも覚悟しなければいけない。
金も、体力も、気配りも、何も使わず、楽しい思いができると期待してはいけない。
金も出したくなく、疲れるのもいやで、一人静かなのは退屈だと言う。
すべて不満なのである。
このような不満の形は老年独特のものらしいが、私は老年の自分に向かってそれは我儘だと言っておこう。
かって若い日に、金の減るのは誰にとってもイヤなものだが、それでも私たちは自分の楽しみのためになけなしの金を出して芝居や映画を見に行ったのである。
ピクニックに行けば、翌日ぐったり疲れることもあったが、やはりでかけたのである。
逆に家にいてひっそりと人に忘れられたようではあるが、ごろごろと一日じゅう雨の音を聞きながら炬燵にあたってテレビを見ていられる淋しさがしあわせ、と思った日もあったのだ。
何かを得る時は、何かを必ず失うのである。
●愚痴を言って、いいことは一つもない。愚痴を言えば、 それだけ、自分がみじめになる。
関心を持たれた方は、
曾野綾子著「完本戒老録」(祥伝社文庫)をお求め下さい。私はシニアのためのバイブルだと思っています。…
●何才から、あるいはどのような人が老人なのか?
年金を受ける年から、定年退職の年から、というような分け方は当てにならない。
人間の老化の程度はじつに人によってさまざまだからである。(中略)
比較的誰にも当てはまり、かつ、主観と客観の一致する方法として、
「もらう」ことを要求するようになった人を、何才からでも老人と思うことにしている。
人間は子どもの時には、まずもらうことから始まる。
おっぱいを飲ませてもらい、オンブをしてもらい、やがて学校へ行くようになるとランドセルを買ってもらい、おべんとうを作ってもらう。これが十五年から時とすると二十年以上も続く。
しかしその子はやがて独立し「与える」側に廻る。
妻子を養い、子どもを教育し、年老いた親を庇う。
そして何十年か経つと、彼は老い、再び自然に子や孫や社会から、手助けしてもらい、与えられる立場に廻る。
しかし彼が本当に一人前の人間であった期間には、彼は何才であろうと、誰かに何かを与えていたのである。
それゆえ、真の成年というものは、肉体的年令が何才であろうと、与えている人であり、もらうことばかり要求している人は、どんなに若くとも老人である、という考え方である。
この徴候は自他ともに明確にわかるから単純でいいのではないかと思う。
●他人が、何かを「くれる」こと、「してくれること」 を期待してはいけない。
そのような受身の姿勢は、若い時には幼児性、年とってからは老年性と密接な関係を持つものだからである。
わずかな金銭、品物から、手助けに至るまで年寄りはもらうことに信じられないほど敏感である。
この心理状態があらゆる場面に強く感じられるようになったら、それは老化がかなり進行している証拠と見ていい。
昔から、人間のもっとも基本的な(原始的なと言うべきかもしれない)生活態度は自ら自分に必要なものを獲ってくることであり、次に弱いものに与えることであった。
幼児に食物を与えることは、種族保存のために必要な行為であり、一人前の成熟した人間は、自分のためには自分で働き、同時に弱い者にはさまざまなものを与えたのである。
『くれる』ことを期待する精神状態は、一人前の人間であることを自ら放棄した証拠である。
放棄するのは自由だが、一人前でなくなった人間は、精神的に社会に参加する資格を失い、ただ、労ってもらうという、一人前の人間にとっては耐えられぬ一種の「屈辱」にさらされねばならぬもの、と自覚するべきであろう。
●してもらうのは当然、と思わぬこと。
年寄りだからといって、してもらう権利があると思うのは、錯覚。
「行政上の老人」としては、してもらう権利があるであろう。
しかし精神を持った人間としてはそうではない。
今は若い人まで、社会や国家に何かを要求し、してもらうのが当然と思う時代である。
しかし根本は、けっしてそうではない。
老人であろうと、若者であろうと、原則はあくまで自立することである。
自分の才覚で生きることである。
社会にしてもらってもいいが、そのほかの部分では、自分が自らすることの範囲をできるだけ広く残しておかなければ、欲求はますます増え、そのために不満も比例して大きくなるのである。
●自分の生き方を持ち、他人の生き方を、いいとか悪い とか決めずに認めること。
五十才になって私が感じたことは、もうこの年になれば人はそれぞれの長い歴史を持っている、ということだった。それを改変させようとすることは思い上がりである。
五十才になれば、残りの時間は、もしかすると短いのだから、その人の生きたいように生きることを承認したい、ということだった。
●定年を一くぎりとして、その後は新たなスタートと思 うこと。
一年生、新人になるのだから、人から教えら れるのも当然。
●明るくすること。心の中はそうでなくても、外見だけ でも明るくすること。
壮年時代に、人間はどれだけ耐えてきたことか。
しかし、年をとると、この耐えるということに対する根本的な力がしだいに薄れてくるものとみえる。
体が悪くなり、能力がおとろえ、親友が死んだら、暗く、悲しい思いになるのも当然である。
当然だから、そのままそのような顔をしていていいということは、この世にはないのである。
●生活の淋しさは、誰にも救えない。
自分で解決しょうとする時に、手助けをしてくれる人はあるだろうが、 根本は、あくまで自分で自分を救済するほかはない。
淋しさは、老人にとって共通の運命であり、最大の苦痛であろう。
皮肉なことに、老いてなお、子どもが独立していなかったり、金銭の苦労があったりする人は、この淋しさという苦しみを免除されている。
淋しさは一応、恵まれた老人に課された、独特の税金だと言ってもいいかもしれない。
他人に話相手をしてもらい、どこかへ連れて行ってもらうことによって、それを解決しようとする老人がいる。しかしそれは、根本的には何ら解決にならない。
どんな老人でも、目標を決めねばならない。
生きる楽しみは、自分が発見するほかはない。
▼年寄りの自分に対する態度が悪いといって、相手を非 難するのは無意味である。
バカにされたといって嘆くほど、つまらないことはないような気がする。
本当に老齢のために頭がバカになっているなら、バカにされる理由はあるのだし、バカでもないのにバカにされたのなら、自分はそうでないのだからほっておけばいいだけである。
バカにされた、と言って怒ったり、相手に文句を言ったりするのは、もしかしたら、逆に老化が来たというはっきりした証拠になっているのかもしれない。
▼楽しみを得たいと思ったら、金を使うことも覚悟しなければいけない。
金も、体力も、気配りも、何も使わず、楽しい思いができると期待してはいけない。
金も出したくなく、疲れるのもいやで、一人静かなのは退屈だと言う。
すべて不満なのである。
このような不満の形は老年独特のものらしいが、私は老年の自分に向かってそれは我儘だと言っておこう。
かって若い日に、金の減るのは誰にとってもイヤなものだが、それでも私たちは自分の楽しみのためになけなしの金を出して芝居や映画を見に行ったのである。
ピクニックに行けば、翌日ぐったり疲れることもあったが、やはりでかけたのである。
逆に家にいてひっそりと人に忘れられたようではあるが、ごろごろと一日じゅう雨の音を聞きながら炬燵にあたってテレビを見ていられる淋しさがしあわせ、と思った日もあったのだ。
何かを得る時は、何かを必ず失うのである。
●愚痴を言って、いいことは一つもない。愚痴を言えば、 それだけ、自分がみじめになる。
関心を持たれた方は、
曾野綾子著「完本戒老録」(祥伝社文庫)をお求め下さい。私はシニアのためのバイブルだと思っています。…
ありのまま・・
2008年1月13日あるがままの自分になること
自分の経験に耳を傾け、
自分自身であることが出来るなら、
それは非常に効果的であるといえます。
私がある人に対して怒っているのか、
拒否的な感情をいだいているのか?
あるいは暖かさと愛情を感じているのか?
退屈しているのか、心配や恐怖を感じているのか?
理解しているのか、理解できないでいるのか?
このような種々の態度は、
自分自身の経験を聞くことが出来る態度なのです。
言い換えると、私はありのままの自分に、
近づいてきたと言えます。
私が不完全で、自分の能力をいつも発揮できるような、
人間ではないことを受容できるようになってきました。
あるがままの自分を受け入れると、
自分が変化する・・
このような矛盾を、私は多くの人から学んできました。
自分自身になりきることで、
生まれることは、偽りのない人間関係です。
本当の人間関係はむしろ動的なものです。
自分が他人を思い通りにしようとしたり、
型にはめようとする事実を受容すること、
このような感情は、
温かさ、関心、許容、親切、理解、といった感情と、
同じように、私の一部ですから受容したいと思うのです。
私が、これらの感情を受け入れたとき、
あらゆる人間関係がありのままとなり、
最も早く成長できるようになると思うのです。
(第124話)
自分の経験に耳を傾け、
自分自身であることが出来るなら、
それは非常に効果的であるといえます。
私がある人に対して怒っているのか、
拒否的な感情をいだいているのか?
あるいは暖かさと愛情を感じているのか?
退屈しているのか、心配や恐怖を感じているのか?
理解しているのか、理解できないでいるのか?
このような種々の態度は、
自分自身の経験を聞くことが出来る態度なのです。
言い換えると、私はありのままの自分に、
近づいてきたと言えます。
私が不完全で、自分の能力をいつも発揮できるような、
人間ではないことを受容できるようになってきました。
あるがままの自分を受け入れると、
自分が変化する・・
このような矛盾を、私は多くの人から学んできました。
自分自身になりきることで、
生まれることは、偽りのない人間関係です。
本当の人間関係はむしろ動的なものです。
自分が他人を思い通りにしようとしたり、
型にはめようとする事実を受容すること、
このような感情は、
温かさ、関心、許容、親切、理解、といった感情と、
同じように、私の一部ですから受容したいと思うのです。
私が、これらの感情を受け入れたとき、
あらゆる人間関係がありのままとなり、
最も早く成長できるようになると思うのです。
(第124話)
裕と・・
2007年11月5日2007・11・3
ばら寿司を持っていったら居た。
吹田に行くと言うので私も車で行くから乗って行き・・と言うことで
母が急に歩け無くなって 右手首の使い痛みから肩そして右ひざへ
体半分が痛いようだ。
11月2日に父の診察で協和会に行く時に母も受診。
痛み止めが出た。
そう、車の中での会話
私は 家(黒川)の中のことは出来ないからと伝えた。
できる事は手伝う
何時も何時もできるとは限らない
母が先に亡くなったらお金の管理をしているから葬式代が出な い
そしたら裕は 父が先だと言う・・??
まあええ、それだけでも話が出来たことを由とする。
ばら寿司を持っていったら居た。
吹田に行くと言うので私も車で行くから乗って行き・・と言うことで
母が急に歩け無くなって 右手首の使い痛みから肩そして右ひざへ
体半分が痛いようだ。
11月2日に父の診察で協和会に行く時に母も受診。
痛み止めが出た。
そう、車の中での会話
私は 家(黒川)の中のことは出来ないからと伝えた。
できる事は手伝う
何時も何時もできるとは限らない
母が先に亡くなったらお金の管理をしているから葬式代が出な い
そしたら裕は 父が先だと言う・・??
まあええ、それだけでも話が出来たことを由とする。
世帯連鎖
2007年10月3日子育てが一段落して自分の時間が出来た時
よっちゃんと私はパチンコに嵌って行った。
初めはそれぞれ夫婦で一緒に行っていたがしばらくすると女同士で行くようになる。
そりゃあもの珍しさで瞬きも出来ないほどの世界だった。
毎日行きたくて行きたくて仕方が無くなり、夕ご飯もそぞろだった。
形だけの支度をして大慌てで食べさせて飛んでいく。
そんな生活が始まってしまったのには時間は掛からなかった。
主人もそうそう機嫌が良い訳でない。
夜に家を空けているのだから。
主人は酒の量が増えたのはこの頃からではないのか・・。
人のことは言えたもんじゃあないけどよッちゃんは酷かった。
炊事洗濯、掃除一切しなかった。
子どもは可哀想だった。
だけど彼女は自分が可哀想だとずっと言っていた。
うらみつらみののしりを子ども達に言い続けていたようだ。
光枝ちゃんは欝になっていた。
しつこいほどに人を責めまくる言葉。
光枝ちゃんの家庭は崩壊寸前。
よっちゃんの言葉が鋭い刃物となって光枝ちゃんや周りの人間に傷付けているのが分らないんだろうか??
光枝ちゃんに私に手紙を書いて送るように言ってきた。
彼女の心はもう溢れてしまっている。
よっちゃんと私はパチンコに嵌って行った。
初めはそれぞれ夫婦で一緒に行っていたがしばらくすると女同士で行くようになる。
そりゃあもの珍しさで瞬きも出来ないほどの世界だった。
毎日行きたくて行きたくて仕方が無くなり、夕ご飯もそぞろだった。
形だけの支度をして大慌てで食べさせて飛んでいく。
そんな生活が始まってしまったのには時間は掛からなかった。
主人もそうそう機嫌が良い訳でない。
夜に家を空けているのだから。
主人は酒の量が増えたのはこの頃からではないのか・・。
人のことは言えたもんじゃあないけどよッちゃんは酷かった。
炊事洗濯、掃除一切しなかった。
子どもは可哀想だった。
だけど彼女は自分が可哀想だとずっと言っていた。
うらみつらみののしりを子ども達に言い続けていたようだ。
光枝ちゃんは欝になっていた。
しつこいほどに人を責めまくる言葉。
光枝ちゃんの家庭は崩壊寸前。
よっちゃんの言葉が鋭い刃物となって光枝ちゃんや周りの人間に傷付けているのが分らないんだろうか??
光枝ちゃんに私に手紙を書いて送るように言ってきた。
彼女の心はもう溢れてしまっている。
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絵
2007年9月11日第39回なぜ子どもは絵を描くのだろう 心のメッセージとしての絵 色彩心理研究家・末永蒼生
3歳の男の子。立った髪の毛の形、手の部分だけに塗り込まれた赤が意欲を感じさせる。実際、この男の子は5〜6歳頃から手先が器用になり絵や工作に力を発揮するようになった。すでにその兆しが感じられる絵である ◇二足歩行を始めるように子どもたちは絵を描き始める
子どもたちは2〜3才頃になると絵らしきものを描き始めます。時期に個人差があるものの、どの子も大人が教えたり関与しなくても自然発生的に描けるようになるものです。なぜ子どもたちが誰に教えられるまでもなく絵が描けるようになるのか、その内発的な力は不思議です。ちょうど、自力で二足歩行を始める現象に似ています。
といっても、多くの人は子どもには描き方を教えないと絵が描けないと信じ込んでいるようです。なので、私がまったく技術を教えないアトリエを開いているというと、信じられないような顔をします。もし、教えなくても描けるようになるなら、美術教育も町の絵画教室も必要なくなるわけですから。
でも、その通りなんです。絵は学校の美術の教科がなくても、お絵描き教室がなくても描けるようになるのです。むしろ、学校での美術の教科は弊害さえあると私は思います。美術の評価が悪く苦手になったという人の話は少なくありません。
ここには見逃されている問題があるのです。それは、子どもはなぜ絵を描くのかという問いに対する答えです。この基本的な問いに答えないまま美術教育が行われ、児童画コンクールなどが行われてきました。それらは大人の期待にどれだけ応えることができるかという絵だったのです。“子ども自身にとって”の絵の意味はずっと顧みられることがなかったのだと思います。
しかし、その答えは意外に簡単ではないかと思います。それは、育ち盛りの子どもの絵というものは、当然ですがまさにその育つ過程そのものを反映しているということです。
◇絵には脳内情報が出力されている
最近では子どもの脳の発達にとても関心が集まっています。それだけ教育における競争が激しくなり、少しでも我が子の能力を伸ばしたいということを望む親たちが増えたからだと思います。しかし、科学技術が発達した今日でも脳のメカニズムがすべて分かるわけではありません。ところが、日常生活の中で子どもの脳と心の状態をうかがいしることのできる方法があります。実は、それが子どもたちが自ずと始めるお絵描きなのです。
子どもの絵というものを教育的な評価の対象にするのではなく、いわば“心のCTスキャン”としてとらえ直すのです。子どもの脳の中の働き、つまり思考や感情の動きがどうなっているかを知るための貴重な生きたデータとして理解することができます。しかも、子どもはお絵描きという行為で、そのデータをカラープリントしてくれるのです。
なぜ私が子どもの絵に対するこのような新しい認識を得るようになったかということですが、それは児童画に対して色彩心理学的な手法を用いる研究があることを知ったことがきっかけでした。今では、子どもの絵の色遣いによってある程度の心理的な解読が可能であることは、実際に子育てをしている親たちなら育児雑誌などの情報を通して知っているはずです。ただし、大事なことは子どもが描いている絵に口出しや手出しをしてしまうと、せっかくの脳内データが壊れてしまうということです。じつは、私があえて“何も教えないアトリエ”のスタイルを大事にしているのはそのためなのです。
◇子どもの絵を心の言語として見たら
素朴に見える幼児の絵の中にどれほどの大切な情報が含まれているか、ちょっと説明してみましょう。たとえば、冒頭にお話ししたように点々などの表現であれば「表現したい!」、つまりアウトプットの状態であることが分かるのです。あの点々は子どもの脳が内側からボタンを押しているモールス信号なのです。
さらに線書きが始まります。不思議なことにどの国の子どもも縦線ではなく横線から引き始めます。なぜでしょうか。これは視点が定まってきたことを意味します。なぜなら、横線はいわば地平線であり子どもが垂直に立ってものを観察できるようになったことを示しています。
やがて円を描き、次第に出発点からぐるりと回ってゴールがつながります。これは何を語っているのでしょう。ものごとには始まりと終わりがあることを子どもが認識できるようになったことを意味します。時間感覚の始まりです。
やがて、この円の中に点々が入り顔らしきものが描けます。子どもが最初に認識する人間の顔です。親が子どもと顔をよく合わせ語りかけている場合ほど、この顔の形の情報は正確にインプットされ、絵にもアウトプットされるようになります。逆に言うなら、子どもの認識能力を育てるためには親や周囲の大人が子どもの顔を見、気持ちを込めて接することが大事であることが分かります。
このように一見落書きに見える幼児の絵の中に、現在進行形の育ち盛りの脳の情報、さらには感情の動きまでが逐一表現され、子どもに何が必要かということまでが読みとることが可能です。このINとOUTの力は自由な表現が保障されていれば自然の能力として発現していきます。このことには、さらに大切な意味があり、インプットとアウトプットがスムースに行われ不必要な情報がノイズとして脳内にたまらなければ、それだけ心理的な安定が保たれることにもなります。言葉を換えれば、これがお絵描きによるセラピー効果ということになるのです。最近の言葉でいうなら「アートセラピー」です。
子育てや教育の一歩は親にとっても教師にとっても、まず子ども自身の内側で何が起きているかを理解することであることは言うまでもありません。子育てや教育における悩みは、ほとんどこの一歩でつまづくことから起きていると言ってもいいでしょう。いかがでしょうか。
子どもたちはなぜ絵を描くのか。その一つの理由に育ちつつある大切な脳/心の動きをメッセージしているということがあると思います。それを受けとめる時、私たち大人は少なくとも子どもの内面への想像力を拡げることができるのではないでしょうか。
3歳の男の子。立った髪の毛の形、手の部分だけに塗り込まれた赤が意欲を感じさせる。実際、この男の子は5〜6歳頃から手先が器用になり絵や工作に力を発揮するようになった。すでにその兆しが感じられる絵である ◇二足歩行を始めるように子どもたちは絵を描き始める
子どもたちは2〜3才頃になると絵らしきものを描き始めます。時期に個人差があるものの、どの子も大人が教えたり関与しなくても自然発生的に描けるようになるものです。なぜ子どもたちが誰に教えられるまでもなく絵が描けるようになるのか、その内発的な力は不思議です。ちょうど、自力で二足歩行を始める現象に似ています。
といっても、多くの人は子どもには描き方を教えないと絵が描けないと信じ込んでいるようです。なので、私がまったく技術を教えないアトリエを開いているというと、信じられないような顔をします。もし、教えなくても描けるようになるなら、美術教育も町の絵画教室も必要なくなるわけですから。
でも、その通りなんです。絵は学校の美術の教科がなくても、お絵描き教室がなくても描けるようになるのです。むしろ、学校での美術の教科は弊害さえあると私は思います。美術の評価が悪く苦手になったという人の話は少なくありません。
ここには見逃されている問題があるのです。それは、子どもはなぜ絵を描くのかという問いに対する答えです。この基本的な問いに答えないまま美術教育が行われ、児童画コンクールなどが行われてきました。それらは大人の期待にどれだけ応えることができるかという絵だったのです。“子ども自身にとって”の絵の意味はずっと顧みられることがなかったのだと思います。
しかし、その答えは意外に簡単ではないかと思います。それは、育ち盛りの子どもの絵というものは、当然ですがまさにその育つ過程そのものを反映しているということです。
◇絵には脳内情報が出力されている
最近では子どもの脳の発達にとても関心が集まっています。それだけ教育における競争が激しくなり、少しでも我が子の能力を伸ばしたいということを望む親たちが増えたからだと思います。しかし、科学技術が発達した今日でも脳のメカニズムがすべて分かるわけではありません。ところが、日常生活の中で子どもの脳と心の状態をうかがいしることのできる方法があります。実は、それが子どもたちが自ずと始めるお絵描きなのです。
子どもの絵というものを教育的な評価の対象にするのではなく、いわば“心のCTスキャン”としてとらえ直すのです。子どもの脳の中の働き、つまり思考や感情の動きがどうなっているかを知るための貴重な生きたデータとして理解することができます。しかも、子どもはお絵描きという行為で、そのデータをカラープリントしてくれるのです。
なぜ私が子どもの絵に対するこのような新しい認識を得るようになったかということですが、それは児童画に対して色彩心理学的な手法を用いる研究があることを知ったことがきっかけでした。今では、子どもの絵の色遣いによってある程度の心理的な解読が可能であることは、実際に子育てをしている親たちなら育児雑誌などの情報を通して知っているはずです。ただし、大事なことは子どもが描いている絵に口出しや手出しをしてしまうと、せっかくの脳内データが壊れてしまうということです。じつは、私があえて“何も教えないアトリエ”のスタイルを大事にしているのはそのためなのです。
◇子どもの絵を心の言語として見たら
素朴に見える幼児の絵の中にどれほどの大切な情報が含まれているか、ちょっと説明してみましょう。たとえば、冒頭にお話ししたように点々などの表現であれば「表現したい!」、つまりアウトプットの状態であることが分かるのです。あの点々は子どもの脳が内側からボタンを押しているモールス信号なのです。
さらに線書きが始まります。不思議なことにどの国の子どもも縦線ではなく横線から引き始めます。なぜでしょうか。これは視点が定まってきたことを意味します。なぜなら、横線はいわば地平線であり子どもが垂直に立ってものを観察できるようになったことを示しています。
やがて円を描き、次第に出発点からぐるりと回ってゴールがつながります。これは何を語っているのでしょう。ものごとには始まりと終わりがあることを子どもが認識できるようになったことを意味します。時間感覚の始まりです。
やがて、この円の中に点々が入り顔らしきものが描けます。子どもが最初に認識する人間の顔です。親が子どもと顔をよく合わせ語りかけている場合ほど、この顔の形の情報は正確にインプットされ、絵にもアウトプットされるようになります。逆に言うなら、子どもの認識能力を育てるためには親や周囲の大人が子どもの顔を見、気持ちを込めて接することが大事であることが分かります。
このように一見落書きに見える幼児の絵の中に、現在進行形の育ち盛りの脳の情報、さらには感情の動きまでが逐一表現され、子どもに何が必要かということまでが読みとることが可能です。このINとOUTの力は自由な表現が保障されていれば自然の能力として発現していきます。このことには、さらに大切な意味があり、インプットとアウトプットがスムースに行われ不必要な情報がノイズとして脳内にたまらなければ、それだけ心理的な安定が保たれることにもなります。言葉を換えれば、これがお絵描きによるセラピー効果ということになるのです。最近の言葉でいうなら「アートセラピー」です。
子育てや教育の一歩は親にとっても教師にとっても、まず子ども自身の内側で何が起きているかを理解することであることは言うまでもありません。子育てや教育における悩みは、ほとんどこの一歩でつまづくことから起きていると言ってもいいでしょう。いかがでしょうか。
子どもたちはなぜ絵を描くのか。その一つの理由に育ちつつある大切な脳/心の動きをメッセージしているということがあると思います。それを受けとめる時、私たち大人は少なくとも子どもの内面への想像力を拡げることができるのではないでしょうか。