曽野 綾子

2008年1月26日
曽野綾子さん「戒老録」より

●何才から、あるいはどのような人が老人なのか?
年金を受ける年から、定年退職の年から、というような分け方は当てにならない。

人間の老化の程度はじつに人によってさまざまだからである。(中略)
比較的誰にも当てはまり、かつ、主観と客観の一致する方法として、
「もらう」ことを要求するようになった人を、何才からでも老人と思うことにしている。

人間は子どもの時には、まずもらうことから始まる。
おっぱいを飲ませてもらい、オンブをしてもらい、やがて学校へ行くようになるとランドセルを買ってもらい、おべんとうを作ってもらう。これが十五年から時とすると二十年以上も続く。

しかしその子はやがて独立し「与える」側に廻る。
妻子を養い、子どもを教育し、年老いた親を庇う。
そして何十年か経つと、彼は老い、再び自然に子や孫や社会から、手助けしてもらい、与えられる立場に廻る。

しかし彼が本当に一人前の人間であった期間には、彼は何才であろうと、誰かに何かを与えていたのである。
それゆえ、真の成年というものは、肉体的年令が何才であろうと、与えている人であり、もらうことばかり要求している人は、どんなに若くとも老人である、という考え方である。

この徴候は自他ともに明確にわかるから単純でいいのではないかと思う。



●他人が、何かを「くれる」こと、「してくれること」 を期待してはいけない。
そのような受身の姿勢は、若い時には幼児性、年とってからは老年性と密接な関係を持つものだからである。

わずかな金銭、品物から、手助けに至るまで年寄りはもらうことに信じられないほど敏感である。
この心理状態があらゆる場面に強く感じられるようになったら、それは老化がかなり進行している証拠と見ていい。

昔から、人間のもっとも基本的な(原始的なと言うべきかもしれない)生活態度は自ら自分に必要なものを獲ってくることであり、次に弱いものに与えることであった。
幼児に食物を与えることは、種族保存のために必要な行為であり、一人前の成熟した人間は、自分のためには自分で働き、同時に弱い者にはさまざまなものを与えたのである。

『くれる』ことを期待する精神状態は、一人前の人間であることを自ら放棄した証拠である。
放棄するのは自由だが、一人前でなくなった人間は、精神的に社会に参加する資格を失い、ただ、労ってもらうという、一人前の人間にとっては耐えられぬ一種の「屈辱」にさらされねばならぬもの、と自覚するべきであろう。



●してもらうのは当然、と思わぬこと。
 
年寄りだからといって、してもらう権利があると思うのは、錯覚。
「行政上の老人」としては、してもらう権利があるであろう。

しかし精神を持った人間としてはそうではない。
今は若い人まで、社会や国家に何かを要求し、してもらうのが当然と思う時代である。

しかし根本は、けっしてそうではない。
老人であろうと、若者であろうと、原則はあくまで自立することである。
自分の才覚で生きることである。

社会にしてもらってもいいが、そのほかの部分では、自分が自らすることの範囲をできるだけ広く残しておかなければ、欲求はますます増え、そのために不満も比例して大きくなるのである。



●自分の生き方を持ち、他人の生き方を、いいとか悪い とか決めずに認めること。

五十才になって私が感じたことは、もうこの年になれば人はそれぞれの長い歴史を持っている、ということだった。それを改変させようとすることは思い上がりである。
五十才になれば、残りの時間は、もしかすると短いのだから、その人の生きたいように生きることを承認したい、ということだった。



●定年を一くぎりとして、その後は新たなスタートと思 うこと。

一年生、新人になるのだから、人から教えら れるのも当然。

●明るくすること。心の中はそうでなくても、外見だけ でも明るくすること。

壮年時代に、人間はどれだけ耐えてきたことか。
しかし、年をとると、この耐えるということに対する根本的な力がしだいに薄れてくるものとみえる。
体が悪くなり、能力がおとろえ、親友が死んだら、暗く、悲しい思いになるのも当然である。
当然だから、そのままそのような顔をしていていいということは、この世にはないのである。



●生活の淋しさは、誰にも救えない。
自分で解決しょうとする時に、手助けをしてくれる人はあるだろうが、 根本は、あくまで自分で自分を救済するほかはない。

淋しさは、老人にとって共通の運命であり、最大の苦痛であろう。
皮肉なことに、老いてなお、子どもが独立していなかったり、金銭の苦労があったりする人は、この淋しさという苦しみを免除されている。

淋しさは一応、恵まれた老人に課された、独特の税金だと言ってもいいかもしれない。

他人に話相手をしてもらい、どこかへ連れて行ってもらうことによって、それを解決しようとする老人がいる。しかしそれは、根本的には何ら解決にならない。

どんな老人でも、目標を決めねばならない。
生きる楽しみは、自分が発見するほかはない。

▼年寄りの自分に対する態度が悪いといって、相手を非 難するのは無意味である。
バカにされたといって嘆くほど、つまらないことはないような気がする。

本当に老齢のために頭がバカになっているなら、バカにされる理由はあるのだし、バカでもないのにバカにされたのなら、自分はそうでないのだからほっておけばいいだけである。

バカにされた、と言って怒ったり、相手に文句を言ったりするのは、もしかしたら、逆に老化が来たというはっきりした証拠になっているのかもしれない。

▼楽しみを得たいと思ったら、金を使うことも覚悟しなければいけない。
金も、体力も、気配りも、何も使わず、楽しい思いができると期待してはいけない。

金も出したくなく、疲れるのもいやで、一人静かなのは退屈だと言う。
すべて不満なのである。

このような不満の形は老年独特のものらしいが、私は老年の自分に向かってそれは我儘だと言っておこう。

かって若い日に、金の減るのは誰にとってもイヤなものだが、それでも私たちは自分の楽しみのためになけなしの金を出して芝居や映画を見に行ったのである。
ピクニックに行けば、翌日ぐったり疲れることもあったが、やはりでかけたのである。
逆に家にいてひっそりと人に忘れられたようではあるが、ごろごろと一日じゅう雨の音を聞きながら炬燵にあたってテレビを見ていられる淋しさがしあわせ、と思った日もあったのだ。

何かを得る時は、何かを必ず失うのである。

●愚痴を言って、いいことは一つもない。愚痴を言えば、 それだけ、自分がみじめになる。



関心を持たれた方は、
曾野綾子著「完本戒老録」(祥伝社文庫)をお求め下さい。私はシニアのためのバイブルだと思っています。…

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